上り坂
手袋職人見習いとして働きだして、4か月が経った。
「仕事は、どうだ?」
昨夜、晩ごはんのテーブルでお父さんに聞かれた。
「どう……かな。楽しいよ」
「そうか。そりゃよかった」
お父さんはホッとしたような顔を見せ、ビールをグイと飲んだ。
工房の仕事は、好きだ。職場の雰囲気もいいし、とても楽しくやらせてもらっている。うそは言ってない。
でも、胸のどこかがザワザワした。
だって、なかなか上達しないんだもん。
リストマフラーは、合格ラインぐらいには仕上げられるようになったけど、手袋は一つ縫い上げるだけで精一杯といったところ。職人にとっては表も裏もないのが手袋。どっちも美しくないと、使ってくれる人を大事にできない。
一つ一つ、自分の中の集中力を全部しぼり出してミシンに向かっているけれど、「練習作」は増える一方だ。その山が、次々とできていくばかり。
「うまくいかないなぁ……」
ポツリとこぼしてしまった独り言。いくら楽しくても、先の見えない楽しさはうすっぺらい気がする。そりゃ、見習いを初めてまだ半年も経ってないし、一人前の手袋職人になるには早い人でも3年かかかるらしいんだから、今の私が上手にできるはずないんだけど。だかって、せっかく雇ってもらったんだから、お客様に自信を持って売れるレベルに早く到達するにこしたことはないはずだ。
「海香子ちゃん、最近元気がない気がするけど、どうしたの?」
休憩時間、手袋職人の大先輩である、この道一筋でやってきたという藍子さんが声をかけてくれた。
「私、うまく縫えるようになると思いますか。仕事が好きってだけじゃダメだなって考えてたら、不安でしんどくなるんです」
悩みを口にしてから、しまったと思った。これじゃ、愚痴を言っているみたいだ。しかも、師匠でもある藍子さんに。
ちらりと横目で盗み見ると、藍子さんは手元の湯飲みから立ち昇る湯気を見つめていた。
「じゃあ、こんな風に考えてみたらどうかな」
そして、湯気にそっと息を吹きかけた。
「しんどいのは、上り坂だからなのよ。ゆっくりでも、頑張って進んでるからよ」
「上り坂、ですか……」
目をつぶって、手袋職人までの道のりを想像してみた。とても細い道で、一人でしか通れなそうだった。でも、周りは決して暗くなく、むしろ真昼の野原のように明るく穏やかだった。この景色をつまらないと思う人もいるかもしれないけれど、私は……道沿いの花を摘みながら歩んで行きたいと思った。
「さて、仕事に戻りましょ」
藍子さんの声に、ハッとして目を開ける。そして、二人でミシンの前に座った。
すぐに隣から、藍子さんのミシンの音が聞えてくる。無駄のない動きに、いつもながら惚れ惚れした。
その時、初めて気付いた。いつも彼女の手ばかりを見ていたので知らなかったけれど、藍子さんの息遣いは、さっき湯気に吹きかけたそれとよく似ていた。
強すぎず、弱すぎない、やさしいやさしい呼吸。こんな集中の仕方もあるんだ。
私はもしかして、力み過ぎていたのかもしれない。
坂道なんだから、しんどくたっていいんだ。ゆっくりいこう。